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| Cacique quimbaya (Museo de América) |
カウディージョはラテンの「頭」を意味するcaputに由来し、首都capitalやキャプテンcaptainといった英単語と同じ語源を持ちます。これに、小ささを表すスペイン語の要素(指小辞)であるilloが付いています。カシーケは、カリブを中心に話されていた先住民言語であるタイノ語で「長(おさ)」を意味する語とされています。
本書にはカウディージョもカシーケも登場しません。その理由は、これらの概念を用いても、ラテンアメリカ政治の記述に役立たないからです。また、そのような用語をわざわざ示すことは、ラテンアメリカ政治の固有性を誤った形で強調することにつながりかねません。
まず、ラテンアメリカを含むどの地域でも、そしていつの時代にも、政治における有力者は存在します。専制では一握りの有力者が政権を支配しますが、民主制においても有権者が大統領や議員を選びます。さらには、政党や労働組合など政治に関わる組織でも、一握りの代表者(執行部)が主に運営を担います。カウディージョやカシーケという呼称を示すことは、ラテンアメリカに独自の資質や権限を持つ政治支配者がいるかのような印象を与えてしまう恐れがあります。
ラテンアメリカの政治文化に関する先行研究の存在にも言及する必要があります。日本語の文献でしばしば紹介されるラテンアメリカ政治研究者にハロルド・ウィアルダ (Harold Wiarda) がいます。ウィアルダはラテンアメリカの政治や社会の特徴として、権力者が恣意的に振る舞い、それ以外の者はその決定に盲従するスペイン・ポルトガルの文化が継承されているというイベリア的遺制 (Iberian heritage) の存在を指摘しました (Wiarda 2001)。
ウィアルダの説明はカウディージョやカシーケの政治的影響力を過大評価しています。ラテンアメリカの市民が権力者に盲従するなら、ポピュリズム(第4章)をはじめとする民主化を求める運動は発生しえないはずです。さらに、ラテンアメリカが国ごとに、そして時代ごとに民主化に対する多様な動きを示していることを考えれば、ラテンアメリカ政治のリーダーと市民が、国や時代を問わず同じ特徴を持つという前提は支持し難いと言えます。
比較政治学では一般に、政治のあり方を人々に根付く(とされる)文化に帰着させることは、「政治がそうなっているのは、政治に関わる人々がそういう存在だからだ」と言っているのと同じであり、説明にならないと見なされます。なお、カウディージョやカシーケをラテンアメリカ政治の説明から外したのは本書が初めてではなく、恒川惠市 2008『比較政治 中南米』(放送大学)が既にそのようにしています。
