「西半球」は地理か、政治か—言葉が南北アメリカを組織するとき

2026年1月11日日曜日

投稿者:舛方周一郎

第1章 米国

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せかラテでは、アメリカ大陸を指す呼称として、原則として「西半球」ではなく「南北アメリカ」を用いてきました。呼び方は些細に見えますが、国際政治では言葉そのものが世界の見え方を形づくることがあるからです。

ホアキン・トーレス=ガルシアの《América Invertida(逆さまのアメリカ )》は、地図という中立に見えるものが私たちの当たり前を形づくっていることを示しました。

普段私たちが目にする南米大陸の地図で南が上になった瞬間、「北が上」という配置が自然法則ではなく慣習にすぎないことに気づかされます。そしてその慣習が、ときに中心と周縁の感覚を固定してしまうことも見えてきます。トーレス=ガルシアはそれをあえて反転させ、南を「新しい北」として再配置する意図を視覚的に表現しました。

同じ種類の見えない前提は、国際政治の言葉にも潜んでいます。その代表例が西半球(Western Hemisphere)です。これは一見、ただの地理的区分に見えます。しかし国際政治の実務や報道の文脈に置かれた途端、西半球は単なる区分ではなくなります。アメリカ大陸(the Americas)を一つの管理されるべき空間として語るための語彙になりうるからです。

もちろん、西半球という呼称には地理的な由来があります。グリニッジ子午線(0度)を基準に西側を半球と呼ぶ発想に依拠しており、境界の置き方にも幅があって、定義は必ずしも一つではありません。つまり実体というより、約束事としての側面を含んでいます。さらに言えば、西という名づけ自体が、基準線をどこに置くのか、誰の子午線を基準にするのかを前提にしています。ここに、西洋中心の視点が入り込む余地があります。

この言葉が厄介なのは、政治的意図が露骨に見えにくい点です。先述のとおり西半球という表現は地理の説明のように響きます。しかし実際には、誰がこの空間を語る権利を持つのか、どの外部勢力を域外として排除するのか、域内の出来事をどの程度、例外的に介入可能とみなすのか、といった秩序形成の論理を含みやすい語でもあります。地図の上/下が価値と権力の配置をひそかに運び込むのと同じように、言葉もまた配置を運び込みます。

では、ラテンアメリカ側から西半球をどのように語り直せるでしょうか。第一に、語彙を選び直すことです。必要なとき以外は西半球という言い方を避け、原則として南北アメリカという呼称を基本に据えることです。加えて、文脈に応じて、アメリカ大陸・カリブ・中米・南米といった、より具体的で対称性のある呼び方に切り替えると、政治的な自明性を薄められます。

第二に、域内を外部の安全保障の語彙で括るのではなく、域内の多様な秩序観のせめぎ合い(自由主義と保守主義、民主主義と専制主義、植民地主義と国家主権など)として描くことです。第三に、米国の行為・視点だけでなく、ラテンアメリカ各国の選択と連合(例えば、抵抗・便乗・第三の道)を同じだけ丁寧に扱うことです。ここまでして初めて、米国の裏庭でもなく、あるいは米国の対応を拒めばただちに反米とひとまとめに見なされる大陸でもない、ラテンアメリカ諸国が培ってきた主体の集積としての地域圏が見えてきます。

トーレス=ガルシアが地図を逆さにしたのは、地理を否定するためではありません。地理の顔をした秩序を問い直すためです。国際政治でも同じです。私たちは何気なく西半球と言うとき、誰の地理を、誰の安全保障の語彙を、どれだけ前提にしてしまっているのでしょうか。答えは一つではありません。だからこそ、まず言葉がもつ意味を足元から確かめてみましょう。言葉を変えても現実はすぐには変わりませんが、現実の見え方は変えられるはずだからです。

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