国内植民地主義(2)批判的考察

2025年4月27日日曜日

投稿者:宮地 隆廣

第2章

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<この記事は国内植民地主義(1)の続きです>

ゴンサレス=カサノバの議論からすでに半世紀以上が経過しました。この間、植民地をめぐる考察も発展を遂げ、ゴンサレス=カサノバを批判的に継承する議論が登場しています。

(1)静的な記述

資本主義のもと、白人による先住民支配が独立前後で変わらないというゴンサレス=カサノバの記述は、あまりに静的であるという指摘があります。第2章で述べた通り、植民地期のラテンアメリカでは白人は都市に、先住民は農村に住むという原則を持ちつつも、のちに両者の混血が多く出現しました。そして、先住民が政府から課税を免れるべく農村を離れ、混血を名乗って白人が主に住む都市に流れ込むことがありました1

このことは、先住民や混血、白人など、あらゆるカテゴリーに属する人々は、生物学的にも文化的にも純粋な特徴を持ち続けていたわけではないことを示しています。そうなると、「白人が先住民を支配する」という記述は、それぞれのカテゴリーが持つ歴史的な変化を捨象してしまっていると言えます。

こうした人間の複雑さや変化を重視する論者として、ボリビアのシルビア・リベラ=クシカンキがいます2。ゴンサレス=カサノバの議論に共感を示しつつ、「まだら」を意味するチヘ (ch'ixi) というアイマラ語の概念を用いて、人間の中に矛盾した要素が共存している状況を表現しました。先住民を例に挙げるなら、農村に住み、伝統的な文化を守り、資本主義社会の発展において従属的な存在として先住民を位置付けるゴンサレス=カサノバの記述は現実を適切に捉えていないと言えます。


リベラ=クシカンキは、先に述べた混血や移動以外にも、様々な先住民の動的な側面を指摘しています。白人の搾取に抵抗して反乱を起こすことや、農産物を積極的に売買すべく市場を発達させたことなどがその例です。植民地となることで、外部から異なる人種や言語、貨幣などが流入する中、先住民はこうした新しい要素を自由に取り込み、組み合わせながら、彼らなりの生き方や秩序を構築してきたとリベラ=クシカンキは唱えます3

(2)国家への意識

もう一つの批判の論点は国家に対する考え方にあります。ゴンサレス=カサノバの主たる関心は国政にあり、政府による統治の民主化を意識しています。これに対し、リベラ=クシカンキはとりわけ21世紀に入ってから、政府による統治を民主化すること以上に、先住民を支配しようとするあらゆる権威を否定し、先住民による自治的な秩序を強調するアナキズム的姿勢を強く打ち出しています。

さらには、政府による支配の問題を超え、観念的に問題を追求した研究者もいます。米国デューク大で教鞭を取ったアルゼンチン出身のワルテル・ミニョロゴンサレス=カサノバがラテンアメリカに見出した搾取や抑圧は世界各地に見られるとした上で、それは資本主義や個人主義など西洋で発展してきた観念に基づく行動の所産であると唱えます。そして、私たちが知らずに依拠しているこうした観念から離れるべく、人々が協働し、異なる認識を持つ可能性を模索するという脱植民地的プロジェクト (decolonial project) の推進を唱えています5

ミニョロの西洋批判は、中国など非西洋諸国が世界で影響力を持ちつつある昨今の状況を肯定するものではありません。世界における欧米のヘゲモニー的地位が失われることを、ミニョロは脱西洋化 (dewesternization) と呼んでいます。そして、脱西洋化したとしても、他者を支配し搾取する人間の行動や性格(ミニョロの言う植民地性 (coloniality))が変わるわけではないと論じています。

脱植民地的プロジェクトが目指すのは西洋的な認識を他の認識で塗り替えることではなく、多様な認識が共存し、相互に補うことです。例えば、西洋の知識体系を教えることが一般的な大学において、先住民やアフロ系住民の知識を評価し、それを中心に学ぶ仕組みを構築することが例として挙げられます。単一の秩序体系や世界 (universe) ではなく、複数の秩序体系や世界 (pluriverse) がミニョロの理想です6

・リベラ=クシカンキとミニョロの関係

リベラ=クシカンキとミニョロはともにゴンサレス=カサノバを評価しつつ、植民地化を進めた西洋を批判的に相対化し、多様性を重視する議論を発展しています。ところが、両者が良好な関係にあるわけではありません。

リベラ=クシカンキはミニョロの脱植民地的プロジェクトを明確に批判しています。先住民の具体的な経験に即して議論し、先住民の言語で概念を提示するリベラ=クシカンキからすれば、ミニョロの議論はあまりに抽象的です。また、ミニョロが米国の一流大学に在籍しながら意見を発信していることは、欧米の知的権力を基盤に思想を流布している意味で、植民地主義と同然であると指摘します。

これに対して、ミニョロがリベラ=クシカンキの議論に言及することは、本記事の筆者が知る限りほとんどありません7。ミニョロからすれば、脱植民地的プロジェクトは人々の協働を前提にしているから、植民地主義的な上下関係を問うリベラ=クシカンキの批判は当たらないと反論するでしょう。

どちらに分があるかは、判断が難しいところです。抑圧や搾取に苦しんでいる当事者と何をすれば協働したことになるのか、誰が協働していると判断するのか、そもそも当事者とは誰を指すのかといった、古くて新しい問題が立ちはだかります。優れた研究であっても、それが先住民の経験や認識を忠実に表現できている保障はないことを考えても8、既存の研究を批判的に検証する作業は絶えず続ける必要があることは言えそうです。

1 第2章では触れませんでしたが、混血を名乗る者が都市を嫌って農村に住み、先住民を名乗る場合もありました(高橋・網野 (2009 (1995)))。
2 主な著作やインタビューとして Rivera Cusicanqui (1991; 2010; 2018)。リベラの著作の間には主張の力点に割と大きな差があると私は見ていますが、以下では共通していると見られる主張をまとめます。
3 カテゴリーの固定性を問題にした同様の批判として de Oto y Catelli (2018)、経済生活の多様性に関連した同様の批判として Favela 2022。リベラの発想は、先住民を他者に開かれた存在として見る レヴィ=ストロースヴィヴェイロス=デ=カストロ の議論、さらには人間を個人 (individual) として発想することを離れ、様々な要素をまぜあわせた分人 (dividual) として見る人類学理論の流れを汲んでいると言えます。
4 主な著作やインタビューとして López-Calvo (2014a, 2014b); Mignolo (2011); Mignolo and Walsh (2018)。
5 植民地にまつわる物事を批判的に検討する学問領域としてポストコロニアル研究 (postcolonial studies) があることはよく知られていますが、ミニョロはこれに否定的です。ポストコロニアル研究は平等や公正を目指していながら、研究をする者と研究される対象という西洋的な権力関係に無批判であることをミニョロは問題視します。
6 大学カリキュラムの例は、ミニョロの共同研究者である キャスリン・ウォルシュ (Catherine Walsh) が自身の所属するエクアドルで行った活動を指します。複数の秩序を具体的に考える上では、ミニョロと共著の実績を持つ アルトゥーロ・エスコバル (Arturo Escobar) の開発に関する著作がわかりやすいと思われます。邦訳も出ています。
7 数少ない言及は共著で見られ、リベラの批判を認識していることを示唆しつつ、リベラの研究は脱植民地的プロジェクトと問題意識を共有しているとしています。なお、共著者であるウォルシュ(注6参照)の単著では、自身の主張を補強するものとして リベラの主張を肯定的に引用しています
8 ペルー先住民の人類学研究の傑作とされる De la Cadena (2015) に対する箭内匡の批判など。本記事の著者もまた、ボリビア先住民の開発観念とされる「よく生きること (vivir bien)」について、リベラを含め多くの議論が錯綜していて、明確な定義ができていないことを論じました。


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